教務担当副学長のジョージ・ミラーが、テンプル大学ジャパンキャンパス(TUJ)と彼の東京での新生活について月に一度のコラムをお届けします。今回は、財務の現実と真に意味あるものに予算を立てることについて書いています。


私はよく貧困の中で育ったと人に話しますが、それはちょっと大げさです。私たち家族は貧しくはありませんでした。なんとか生活できていました。

両親は私が7歳のころに離婚しました。母がアメリカに来てから8年しか経っていなくて、彼女はウェイトレスの仕事を見つけました。父は母の故郷である九州の佐世保の海軍基地にいる間に母と出会い、車のセールスマンとして働いていました。

当時どれだけ物がないのかを、私は考えたこともありませんでした。何があるべきかを知らなかったので、ありあわせのもので間に合わせていました。

ですが、中学に入った時に周囲との違いに気づき始めました。クラスメートは真新しいエアジョーダンや他のブランド靴を履いていました。私は本物のブランドと似ている少し違うロゴの格安ブランドを履いていました。緑色のラコステのワニの代わりに灰色のカバとか、ラルフローレンのポロ選手の代わりに馬を引いている人とか。

私が本物を欲しがると、両親に即却下されました。

そのころ、肩章つきの「Members Only(メンバーのみ)」のジャケットが流行っていて、すごく欲しかったことがあります。母が私に選んだのは偽ブランド品でした。本物は胸ポケットに「Members Only」ラベルが貼られていますが、私のには「Exclusive Club(会員制クラブ)」と書かれていました。

それはその通りで、そんなクラブに入っているのは私だけでした。

両親が私の要求にいつもノーと言っていたあの時代が身に染み付いています。そのため、わずかなお金を使うのにも非常に注意深くなり、自分ができることに感謝するようになりました。そのおかげでお金の価値を認識するようになりました。

大学時代のジョージ。父と祖父と一緒に

フィラデルフィアにあるテンプル大学本校で教えていた時、私は学生の教育にかかる費用について、いつも考えていました。大学の学位取得には近ごろ多大な費用がかかります。そして悲しい現実は、それなりの人生を送るのに必要な給料をもらえるまともな仕事をみつけるためには、大学がほぼ必要不可欠であるということです。

私は費用を最小限にする方法を探そうとしました。私の授業では学生に最新版の教科書の購入を求めるかわりに、前の学生が新入生に教科書を売る仕組みを作り上げました。高額なイベントのチケットを買うよりも、フィラデルフィア近辺の無料イベントに行くことを学生に勧めました。東京と同じくフィラデルフィアには無料で楽しめることがたくさんあります。

「The 8th and Poplar」野球チームのプレイヤー。フィラデルフィアで土曜日に一日中一緒に野球をした仲間。しかも無料で

毎年メリット昇給を申請する時期になると、教育の価格について考えました。ですから、私は昇給を申請したことがありませんでした。給料を増やすためのお金はどこかから来るしかありません。そして、それは学生の授業料でした。

大学で事務的業務を行い始めた時、学生やプロジェクトのための資金を授業料だけに頼るのではなく、外部から生み出す方法をいろいろ考えました。

現在、私は東京キャンパスの教務担当副学長として、学部課程の次年度予算に取り組んでいます。やりたいことはたくさんあります。しかし、それは全てお金次第です。

多くの判断が財務の議論に終始します。ひどい話です。歳を取るほどに、お金が人生の中心になっていくように感じます。

湯島天満宮で花盛りの木々に見入る人々

以下は、お金よりも考えたいことの短いリストです。

  • 東京ヤクルトスワローズで47歳のルーキー三塁手になるのはどんな感じだろうか
  • ジェントリフィケーション(下層住宅地の高級化)は東京に存在するか? それとも、ジェントリフィケーションは極端に異なる諸集団がいる都市でのみ起こるのだろうか?
  • 子犬
  • 文学の価値。そして、小説が重要である理由
  • 世界に影響を与えることと人生を楽しむことは同時に実現できるのか?
  • ホーギー(サンドイッチの一種)
  • 文字通りお金以外のこと

米国にいる私の祖父母は1923年に生まれて、大恐慌の最中に育ちました。祖父母は実際、貧乏でした。食べ物を買うのがやっとで、トイレは屋外の裏庭にあった当時経験したことは、祖父母の記憶にいつまでも残り続けていました。

子供のころ、私は週末を祖父母と過ごしていました。祖父母は毎回昼食に1缶のスープを分けて、サンドイッチを1つずつ食べていました。サンドイッチにはチーズ1切れ、ボロニアソーセージ1切れ、レタス1枚と時々薄いトマトが1切れ入っていました。大恐慌から4、50年が経過しても、祖父母は質素に暮らしました。

祖父母は共働きで、子どもたちが成人した後には身の回りのものを買うのに十分なお金を持っていました。祖父母はあちこち旅をしましたが、あまり多くはしませんでした。祖母は給料を受け取るたびにお金を家のどこかに隠し、祖母が亡くなった後には、祖父が同じことをしました。祖父が養護施設に移った際、椅子のクッションの下や食品置き場、引き出しや戸棚に、父が何千ドルも見つけました。

デラウエア川で水陸両用「Ride-The-Ducks」ボートツアーに参加するジョージの祖父母

私も数年前まで同様に暮らしていました(お金を隠すことを除いて)。節約をして、請求書の支払いばかり心配していました。それなりの生活費を稼いでいても、まさかの時の備えのためにあれこれするのを避けていました。

それから、私は幸運を掴みました。副業の雑誌ビジネスが、儲かるパートナーシップを生み出し、お金の心配はおおむねなくなりました。それは私に解放感をもたらしました。突然、本当にくつろぐことができたのです。

東京ドームシティで踊る高円寺阿波踊りのダンサー
あとを追って一緒に踊る人々

数年間しか続きませんでしたが、その贅沢な数年間、私は本当に人生を楽しみました。友人を夕食につれていってお酒を奢りました。旅行をして、大義のための寄付をし、そしておおむね、お金が全ての細かいことの背景にある究極の要因にならないように務めました。

もちろん自由にお金を使ったわけではありません。謙虚に育った自分は変わりません。しかし、充実した日々を過ごしながらも明日に備えるバランスを保てることに気づきました。

昔から、ずっとそうできていたら良かったのにと思います。

学生も同じことに気がついていることを願っています。