プレゼンテーション要旨およびディスカッション要約

2012年11月16日(金)14:00~17:00 於:国連大学ウ・タント国際会議場

プレゼンテーション要旨およびディスカッション要約

シンポジウム主旨

世界のどこでも活躍できるスキルと能力を備えた「世界人材」。米国大学の学部課程教育で採用されている「リベラルアーツ・アプローチ」は、そうした人材の開発になぜ有効なのか?参加型授業による理論的思考力の養成といった技術論にどどまらず、日本でいう一般教養教育とは似て非なるリベラルアーツ本来の考え方をひもとき、産官学どの分野でも国境なき活躍のベースとなる「世界人材の基本的資質」とその育成について議論する。

パネリスト:

モデレータ:

プレゼンテーション要旨

プレゼンテーション1:「既成概念の内と外:専門教育かリベラルアーツ教育か」

ロバート・M・オアー氏

ロバート・M・オアー氏 [プロフィール]

最近、リベラルアーツ教育の価値を疑問視する風潮がある。私の出身地フロリダの州知事は、リベラルアーツ教育を21世紀には無用の学問と決めつけ、州立大学における技術系コースの授業料を下げ、かわりにリベラルアーツ系は値上げすることまで提案した。私はこれに反対である。ビジネスや技術の教育がダメというわけではなく、両方必要ということだ。よい職業に就き、生産的な市民となるためには、リベラルアーツを含む包括的な教育が大切なのだ。

2008年にデューク大とハーバード大が、米国の502のテクノロジー企業のトップに調査したところ、エンジニアリングやコンピュータテクノロジーの学位を持っていたのは37%に過ぎなかった。成功するためには、幅広く学際的な学びが必要だということの証左だろう。

もうひとつ、スポーツの例をあげたい。私が高校生のとき、当時のアメリカンフットボール界で著名なクオーターバック、ボルティモア・コルツのジョニー・ユニタス選手にインタビューをしたことがあった。日本でいう王貞治のような選手だ。高校生アメフトプレーヤーへのアドバイスを求めたところ、彼の答えは、「アメフトだけやっていてもダメ。バスケットや野球やいろんなスポーツを経験しろ」というものだった。

さらに、モトローラとボーイングというビジネスの世界にも15年ほどいたが、採用面接に立ち会うと、ビジネス系・技術系の学位の保持者よりも、たとえば英文学を専攻した人のほうが魅力的だと思う場面がよくあった。そういう人物は、型にはまらない考え方をする可能性が高いからである。

トム・フリードマンという米国の著名なコラムニストは、「リベラルアーツはいま、これまでになく重要であり最優先されるべきだ」書いている。なぜなら、ここからイノベーションが生まれるからだ。アート、サイエンス、文学、それらと技術系のハードサイエンスが混ぜ合わさった結果、アップルのiPodやグーグルは生まれたのである。実際スティーブ・ジョブスは、技術だけでは足りない、リベラルアーツあるいはヒューマニティとの融合こそ、アップルのDNAであり飛躍の源だと述べている。リベラルアーツを学ぶことで、好奇心が生まれる。疑問を持つ力が生まれる。コミュニケーション力、創造的思考力、倫理的判断力、そして交渉力も育まれる。

交渉力でいえば、アジア開発銀行には67の国が参加し、24カ国を代表する理事がいる。

交渉力でいえば、アジア開発銀行には67の国が参加し、24カ国を代表する理事がいる。その利害を調整するためには、交渉相手が何を考えているのかよく理解することが不可欠だ。グローバル化が進む現代の社会では、多様な文化に対する理解が重要であることは論をまたない。それはリベラルアーツ教育のバックグラウンドから与えられるのである。

 

プレゼンテーション2:日本の大学の致命的欠陥-受益者の視点から見て

諸星裕氏

諸星裕氏 [プロフィール]

1. ミッションの欠如

私は1989年からミネソタ州立大学秋田校の学長を務めた。なぜミネソタ州立大学は日本にキャンパスを作ったのか。第一次産業からハイテク産業への転換をしようとしていたミネソタ州には、州民の国際化という課題があったからだ。2つの州立大学13万人の学生を外国に送り出し、国際教育をするのがミッションであった。

翻って日本の大学を見てみると、ミッションがない。金太郎飴のようにどこも同じである。自学のミッションを明確に打ち立てることができれば、日本に大学は多すぎない。間口が広がった分、確かに学生の学力は下がっているかもしれないが、それは教育の質の低下とイコールではない。逆に、そうした学生を受け入れる大学の教育力は必然的に上がってくるはずだ。しかし、上がってきているように見えないのは、日本の大学にミッションがないためである。教員は3桁の割り算ができない学生を教育しなければならないのに、多くの教員はいまだに自分を研究者だと思っており、採用も研究業績に基づいて行われている。その大学は教育大学なのか、研究大学を目指すのか、何をしようとしているのかが見えないのだ。

2. アドミニストレーションの欠如

日本の大学には、プロのアドミニストレーター(行政管理者)がいない。学長はみな大学経営のアマチュアである。長年学者をやってきた人が突然、資産台帳の読み方や労働関係法規もわからないまま、選挙でトップに選ばれる。ファンドレイジングや政治的活動の経験もないから、海外の大学の学長と討論にもならない。これでは大学の組織として非常に危うい。

3. システムの欠如

アメリカの大学には、いろいろなシステムがある。たとえば成績評価に使われるGPAは、アメリカでは100年以上の検証を積み重ねて出来上がったシステムだ。日本でもGPAを導入したという大学はあるが、昔の優・良・可をABCに置き換えただけで、それを使って何をするか考えていないし、やり方もわかっていない場合が多い。桜美林の副学長になってすぐ、ホームページに投書箱を作った。最初に来た質問は、学生から成績のつけ方のいい加減さについての指摘だった。GPAを導入すると学生はものすごく勉強するようになるはずで、それこそが目的のはずなのに、多くの大学においていまだ明確な根拠がないまま成績評価が行われている。

また、我が国の大学教員というのは、「人にものを教えること」を誰にも習ったことがなく、ものを教えるという事を勉強する機会もないという特殊な職業である。最近では教員同士の授業参観も少しずつ実施されているが、授業の評価は意義のある形では行われていない。学生による授業評価が完璧なものではないのは確かだが、話の流暢さではなく、学生とコミュニケートしているか、授業への熱意を学生たちが感じられるかなどを評価するシステムは必要だ。しかしそれを測る手段すら持っていないのが現実である。

さらに、コスト計算について言えば、日本の大学にはFTE(Full Time Equivalent=フルタイムの学生に換算すると何人分か)という考え方がない。学生が所定の授業料を払えば1学期に何単位とろうが無関係のどんぶり勘定をしているため、1単位を出すのにいくらかかるか、という問いに答えられる大学はほどんどない。

4. 職員の重要性

4. 職員の重要性

職員は教員のサーバントではなくパートナーである。しかし、日本では残念ながら物事を決めるのは教員で、職員はそれを実行するだけだ。これでどうやって職員のモチベーションを上げるのか。職員教育はもっとも大事である。「大学職員」という仕事はなく、各人がカウンセリング、就職支援、広報、アカデミックアドバイジングといった専門家になる必要があるが、終身雇用とローテーションという人事制度がそれを阻んでいる。

5. 学部間の壁

日本の大学学部に入学してくる学生は、偏差値が足りなかったからなどの理由でそもそも不本意入学が多い。つまりやる気がなくて当たり前、ということを大前提としなければならない。そこでリベラルアーツの話になる。母校のICUでは3年前から一括入学に変更し、最初2年間様々な教養科目を学んで、3年目に専攻を選ぶシステムになった。私が学んだころは、5学科から選んで入るシステムだったが私は3回専攻を変えた。それが可能なのがリベラルアーツだ。5-7年かけて卒業した人のなかには3つ卒論を書いた人もいる。その仲間が欧米の大学院に進み、法学、薬学、経営学、工学などいろいろな分野で世界中で活躍している。リベラルアーツは世の中すべての基本だと思う。

1965年、ICUの1年生のとき、米国の大学から来ていた先生が言ったことを今でも忘れない。「これだけは覚えておいてください。教育の目的はTo reduce bias=偏見をなくすことだ」と。教育を受ければ、理解するための知識が身につく。理解すれば、怖いものがなくなり、偏見もなくなるのだと。その後47年あまり、私はその言葉をずっと頭に置き、いろいろな仕事をしてきた。カナダの刑務所、オリンピック、ワールドカップサッカーの招致や組織委員会活動、大学経営など、私は典型的なリベラルアーツのプロダクトといえるだろう。その先生には本当に感謝している。日本にもリベラルアーツの芽はあるし、絶対に可能だと思っている。

プレゼンテーション3:グローバル時代のリーダーシップ

藤森義明氏

藤森義明氏 [プロフィール]

これまで日本は、真剣にグローバル化を考えなくてもよかった。LIXILも5年くらい前までは99%日本をベースにしていた。しかしこれから、すべての企業はグローバルに出て行かなければやっていけない。

私は大学を出て商社に入り、普通の日本人の仕事をしていたが、会社から海外のMBAに行けといわれたのが転機となった。私は日本の会社の社長になりたかったので、当初その2年間は無駄ではないかと思ったが、行ってみたら世界観が変わった。帰国して5年後、GEにヘッドハントされた。アメリカの会社に入ったからには、本国でアメリカ人と戦って勝ちたいと思ったので、2年後にはアメリカへ行かせてもらい、以来20年以上そこで働いたが、その間ジャック・ウェルチの経営哲学に大きな影響を受けた。60歳という区切りの年を迎えたとき、今度は日本の社会で変革をおこしたいと考えて、現在の職に就いた。

LIXILは1年前にできたグループである。トステム、INAX、サンウエーブなどグループ内にはさまざまな企業があり、すべて国内市場で1-2位である。しかし、世界で1-2位ではない。ここで外国に出て行かなければ、これからの成長はない。そこで、グループ全体として総合力・コスト競争力を高めるため、既存の組織をいちど壊して新しい会社をつくり、「LIXIL」というひとつのブランドにまとめた。5年間で住宅建材業界のグローバルリーダーになることを目指している。海外売上を400億円から1兆円に成長させるという大きなビジョンを掲げた。そのためには、文化そのものもグローバルに変えていくという変革にもチャレンジしている。

LIXILのグローバル経営哲学は、5つの原則で進めている。グローバリゼーションとは、単に海外の売り上げを増やすことや、日本人が海外に行ってたくさん売ってくることではなく、各地に根をおろして現地人を活用しインサイダーとなること。そうした性別・国・宗教・言葉、すべての意味で多様化した集団が、ひとつの理念・バリューの下にまとまっている、同じ方向に向かっている、それがグローバルカンパニーだと考える。

現在、グローバル人材が足りないと感じている。

現在、グローバル人材が足りないと感じている。買収を重ねて海外事業は大きく伸びたが、買収先の社員はみな外国人だ。彼らをモチベートするには、グローバルに通用する人事制度とリーダーシップの育成が不可欠である。日本人は、実行力、気迫、会社への忠誠心、責任感といったすばらしいものを持っている反面、自分で考えて行動する力、自分をオープンにする力、そしてダイバーシティを追求する力が不足している。多様な背景を持つメンバーが集まれば、一見バラバラのようでもひとたび同じ方向を向いたときの創造力と爆発力はすごい。そのエネルギーを信じることが大切だ。

いろいろな人がいれば、平等な競争条件と公正な評価が不可欠になる。その評価基準は、リーダーシップと結果を出す力、つまり実力主義だ。両方持っている人にはさらに高い目標を与えて成長させる。どちらかが欠けていれば教育を提供する。両方欠けていれば入れ替えることで組織に対流を起こし、新しい競争条件を生む素地を作る。

こうした多様性のある組織をまとめるには、会社の理念・バリューを明確に提示することが大切だ。そのバリューを体現するのがリーダーである。リーダーシップと結果を出す力をきちんと定義し、評価すること。この仕組みがフェアであればあるほど人は育つ。LIXILでは「9つのバリュー」を掲げているが、その中でも特に大切なこととして、変革を起こす力、オープンな組織(タテの壁とヨコの壁を取り除く)、あくなき向上心、そして無駄の排除(選択とは100のうち99を捨てること)、を挙げたい。

GEの初代経営者は、「組織が永続的に成長するために必要なのは、発明でも製品でもなく、人だ」といった。だから人に対する投資、リーダーシップトレーニングを重要視している。しかし、これまで日本の会社でスキル研修しか受けたことのない40代の社員は、いきなりリーダーシップといわれても困ることが多い。LIXILでは、8ヶ月かけてまず気づきを与え、それをベースに自分はどこに向かったらいいかを考えさせるようにしている。次世代(20代)のリーダーシップ開発にとって重要なのは、世界を見てくること。いろいろなバックグラウンドを持つ人が集まるところへ行くことは非常に大事だ。

 

パネルディスカッション

パネルディスカッション
ブルース・ストロナク テンプル大学ジャパンキャンパス学長

ディスカッションに入る前に、「リベラルアーツ」とは何かを考えておきたい。私は万国共通の「リベラルアーツ」というものはないと考える。なぜならその価値は時代と場所によって決まるからだ。最も基本的な定義としてよくアメリカで使われる表現は、「よき市民(Good citizens)」を生み出すこと。つまり、経済的・社会的な意味で生産性の高い市民(productive citizens)を育てることである。そのために何が必要かは、時代と場所によって異なる。

また、リベラルアーツ・カリキュラムは日本でいう「教養教育課程」とは異なる。違いは、リベラルアーツ・カリキュラムは高度に構造化したものだということ。ひとつの教育哲学として、明確に定義された結果を生み出さなければならない。また、そうしたカリキュラムを導入するには、教員ではなくアドミニストレーターがリーダーシップをとる必要がある。

<ストロナク>

<ストロナク>

パネルのみなさんに聞く。まず、大学は多すぎるかという議論についてだが、私は多すぎると思う。ただし、新しい大学はどんどん作るべきで、そのかわり役割の終わった大学は速やかに退場させるべきだと考えるが、どうか。もうひとつは、日本にリベラルアーツ教育は本当に必要なのか、ということ。日本でリベラルアーツとはそもそも何を意味するのか。日本社会は多様化が進んでおらず、まだ閉鎖的で国際化もさほど進んでいない。リベラルアーツの考え方はこのような社会には馴染まないのではないか。

 

<諸星>

<諸星>

日本社会が閉鎖的だからこそリベラルアーツは必要。多様化していればそもそも必要ない。大学を退場させろというが、日本ではひとたび作れば簡単にスクラップできない。たとえば慶応大学が湘南藤沢キャンパスを作ったのは、既存の学部ではできなかったからだろう。日本の大学でスクラップ&ビルドとは、自分で自分に死刑宣告するようなものだから不可能だ。

 

<藤森>

<藤森>

リベラルアーツ的な考え方は、大学で導入しても遅すぎる。日本では小中高の段階でもっと考える力を養うべきだ。私の子供たちはみなアメリカの学校に通っているが、日本の教育とまったく違う。大学が多すぎる構図は産業界とまったく同じ。弱くなってもなんとか生き残ろうとする力が働く。しかしコンソリデーションは必要だろう。産業界でもコンソリを重ねて、強いところが2つ残れば爆発的な力が出る。大学でも新しいのを作らせないとか、弱いのを潰すとかよりも、コンソリデーションが理想だと思う。

 

<諸星>

<諸星>

コンソリが必要というのはそのとおりだが、大学同士が一緒になることは難しく、強いほうまで弱くなってしまう場合が多い。最近は、かわりにコンソーシアムを組み始めている。現在、首都圏西部単位互換協定会という、28大学が集まったコンソーシアムに参加しており、学生の往来を活発にしている。神戸や京都でも同じようなことが行われている。重複する施設を見直すなど、集まることで無駄を省くところまではいってないが、次の段階では可能になるのではないか。行政のルール上難しいところもあるが。

 

<藤森>

<藤森>

企業も同じで、コンソリをやろうとしないから世界の企業に全部負けている。いま諸星先生が言われたようなことは、企業でももっと行われたほうがよい。

 

<ストロナク>

<ストロナク>

大学とビジネスは違う、という意見はアメリカでも聞かれるが、伝統的にアメリカでは産学の間に多様で生産的な連携が築かれている。しかし日本では産学の溝はもっと大きい。日本の大学がリベラルアーツを推進するなら、彼らは企業からもっと学ぶべきではないか。たとえば「競争」という概念を取り入れることだ。リベラルアーツのポイントのひとつは、多様な観点から分析できる力を養うことなのだから。もうひとつ、民族的に多様化していない日本の社会では、考え方を多様化することが重要であり、それが日本におけるリベラルアーツの意義だと思う。ここで、あえて問題提起をしたい。いまの日本社会において、全員がグローバルな視点を持たなければいけないのか。社会のなかにはそうでない構成員も必要なのではないか。また、リベラルアーツ=エリート主義、上流階級の白人のもの、というイメージもある。万人にとってリベラルアーツは必要なのか。

 

<オアー>

<オアー>

ドメスティックとグローバルと両方の視点を持つことは可能だし、みながそうするべきだと思う。なぜなら、地球規模のコミュニケーション革命で世界は劇的に変わったし、この流れに後戻りはないからだ。オバマ大統領は、「もっと多くの国民に大学教育を」と主張して、反対陣営からエリート主義と非難された。しかしそれは、労働階級として固定化した低所得層には教育が必要ないという乱暴な議論だ。私はリベラルアーツは万人のものだと思う。1945年にできた復員兵援護法(通称G.I. Bill:復員兵の教育資金や住宅資金を給付する)はアメリカの教育を変えた。それまでは、まともな大学といえば確かにアイビーリーグだけだったが、1200万人の復員兵が大学教育を受けるためには、それらの大学だけでは足りなかったのだ。こうしてGI Billの導入後、全米で大学の均質化が進み、全米に高質の教育が広がったのである。

 

<諸星>

<諸星>

リベラアーツを学べばグローバルな考え方ができるようになるかというと、そうなる人も、ならない人もいるというのが事実だ。たまたま私は世界中で生きてきて、これまでの人生でいろいろな選択肢があったのは、リベラルアーツ教育でグローバルな視野を持てたからだとは言える。しかし同じ教育を受けても日々目の前のことで頭がいっぱいの人もいる。大多数の国民は、自分の身に直接降りかかってこない限り外国のことは意識しなくてよい状況にあり、それをいつも考えていたら逆に国を牽引していく力が落ちてしまうだろう。リベラルアーツがエリート主義などと考えたことはない。どんな人にとっても、可能性を(広げようと思えば)広げることができる、いろいろな人生を歩むためのツールを与えてくれるのが、リベラルアーツだ。

 

<藤森>

<藤森>

企業のなかではリベラルアーツ云々はあまり意識して考えていない。しかし、リーダーシップを磨くために与えられるツールとして、それは大事だろう。

 

<諸星>

<諸星>

企業と大学の関係について言えば、1960年代には産学共同という言葉はキャンパスでは禁句だった。大学人が企業と付き合うなんて、という風潮があったからで、連携が進み始めたのは最近のことだ。

パネルディスカッション
<藤森>

<藤森>

日本よりアメリカのほうが産学の連携は強いと思う。たとえばGEには米国内の大学約50校に対応するユニバーシティ担当エグゼクティブがいて、CEOを連れて行ってプレゼンテーションしたりする、つまり大学に対して役員レベルが関与している。それから、日本のインターンシップというのはおかしな仕組みだ。採用には使っていけないというのだから。アメリカでは伝統的にリクルーティングのツールだ。まだまだ日本の大学と経済界はつながっていない。

 

<諸星>

<諸星>

米国の大学でインターンといえば1学期16週間びっちりやるものだが、日本ではせいぜい2週間程度の、単なる職場拝見。たとえ長期インターンとして送り出してもその成績評価の仕方がまったくいい加減だ。大学としての責任を放棄している。あれなら止めたほうがいい。

 

<オアー>

<オアー>

インターンシップ成功のカギは、受け入れ団体の中間管理職にあると思う。インターンシップは綿密に計画されなければならないし、企業にも受け入れ側としての責任がある。実際の受け入れ部門の管理職がきちんとコミットしてなければ、時間の無駄だ。

 

<藤森>

<藤森>

企業が責任をもって学生を預かる、お給料も払う、という仕組みを作るべきだ。学生の側には「社会を学ぶ」という力も意欲もあるのに、きちんとしたインターン制度がないのは残念だ。

 

<諸星>

<諸星>

「学生」に対して「社会人」という言葉があるが、おかしい。まるで、「社会」に出る前の学生には責任がないかのようだ。大学の中でも学生アルバイトは大勢働いているが、教務課にはいない。成績などを扱うため守秘義務があるからだという。そういう責任を持たせることこそ就業経験なのではないか、と思う。

 

<ストロナク>

<ストロナク>

学長をしていた横浜市立大学では、なにか改革をしようとすると、「ここは日本の大学だから」という抵抗に遭った。「ジャパニーズ」という属性が、改革を阻む理由らしい。本当のリベラルアーツ教育を導入してグローバル市民の育成を志向するなら、それは「ジャパニーズではでなくなる」ことを目指すことをも意味する。「ジャパニーズ」という定義を再考する必要があり、それは大学だけでなく、日本社会全体にも当てはまるだろう。

質疑応答

質問者1:

9歳の子供をグローバル市民として育てたい。リベラルアーツ教育を受けさせたいが、大学からでは遅いという話があった。日本の小中高の教育には期待できないのか。日本の教育とリベラルアーツは組み合わせられないのか。

<藤森>

<藤森>

考える習慣をつけ、考える力を養うことが大事。小中高から始めたほうがよいが、それが無理なら大学からでもやったほうがいい。

 

<諸星>

<諸星>

リベラルアーツ教育にはコストがかかる。ICUでは学生15人に対して教員1人だ。一方で70対1の大学もある。本当はそれで教育はできない。大学を選ぶときはその教育内容をしっかり見極めたほうがよい。

 

<ストロナク>

<ストロナク>

たしかに日本の小中高の教育には問題があり、それは入試の問題である。センター試験がある限り、日本にリベラルアーツ大学はできないだろう。学生の側にリベラルアーツ的教育を受ける準備ができていないからだ。思うに、日本で親が子供と一緒にお風呂に入る習慣はすばらしい教育の機会だ。そこで自然に人生について話し、考え、学ぶことができる。しかし、親とお風呂に入らなくなったころに塾通いが始まり、受験勉強に染まってしまうのが残念だ。

質問者2:

リベラルアーツ教育の意義はわかるが、実際には専門教育や職業教育のニーズが多いのが現状である。どうしたらもっと大学でリベラルアーツを教えることができるか。

<ストロナク>

<ストロナク>

重要なことは、「リベラルアーツのコースを作る」ことでない。専門科目をリベラルアーツのアプローチと要素を使って教えることだ。リベラルアーツ科目と専門科目の単位数の比較ではない。

 

<諸星>

<諸星>

技術的には、現在(卒業に必要な)124単位のうち専門科目は50単位程度だから、74単位はそれ以外。だからいまの仕組みを少しアレンジして、専攻選択の時期を遅くすることは可能だろう。しかし、学生募集が学部単位であれば1年目から専門科目をやらざるを得ない。そういう内部の問題の打破が必要だ。

 

<オアー>

<オアー>

私は、明確に「リベラルアーツのコース」を設定すべきだと思う。アメリカにおける調査を見ても、歴史、哲学、地理などの基本がわかっていない若者が多すぎる。この根本的な問題を大学は直視して、明確に優先順位をつけて資源を分配すべき。既存のカリキュラムを少し手直ししてリベラルアーツらしく装ってもダメだ。

<藤森>

<藤森>

リベラルアーツ教育に必要な要素の8割はすでにあると思うので、それをどうアレンジし、どう打ち出していくのかは個々の大学の決断だと思う。

 

<ストロナク>

<ストロナク>

大学の教育カリキュラムの構成はいつも議論になる。それは時代とともに需要が変わるからだ。しかし、リベラルアーツか専門かという二分法は避けるべきだ。リベラルアーツは基本的に学部のもの。専門は別の大学院で学ぶものという考え方をすれば、将来どの分野に進むかに関わらず、全ての学生にとって必要なものを与えるのがリベラルアーツだ。